年が明けて最初に観た映画は「フェリスはある朝突然に」で、それが1月2日。それから映画館で観たい映画がわずかながらありながらもタイミングをはずし続けて、そもそもが時間をやりくりしてまで観たい映画がなかったのかもしれない。映画館での映画初めはずるずると引き延ばされ、いつのまにか1月は終わり、TOHOシネマズの会員の有効期限もそういえばもう1〜2ヶ月切れたまま。でも昨年開館したばかりのミニシアターStrangerで1月から始まったドン・シーゲル特集は、そのチラシを手にした昨年末より観に行きたいなとウズウズしていたので、これは予定をやりくりして観に行ってきた。
Strangerは都営新宿線の菊川駅、地上に出て歩いて1分もかからない場所にある。駅近が嬉しいし、駅前交差点の角々にマック、大阪王将、ゆで太郎といった程よい価格帯の飲食店があるのもなお嬉しい。けれども飲食のことでいったら、Strangerは館内にカフェスペースがあってコーヒーもサンドイッチもおいしいので、席にも懐にも余裕があればここで食べるべきなんだろう。コーヒーの味のわからない男ではあるけども、Strangerのコーヒーは酸味が効いててスッキリとおいしい。
ドン・シーゲル特集は、まず前半に50年代から60年代にかけて監督した作品から4本を、続いて後半に60年代から70年代にかけて監督した作品から4本、という2部構成で二ヶ月間の企画上映。ドン・シーゲルの70年代の代表作といえば真っ先に「ダーティーハリー」が思い浮かぶところだけど、今回の特集には入っていない。それでつい先日U-NEXTの見放題に入っていた「ダーティーハリー」を久し振りに観て、スコーピオンの動機もハリーの苛立ちも実は根っこはいっしょなんだなと思ったりした。ハリーが銀行強盗団をマグナムぶっ放して捕らえるシーン、ハリーがダイナーから出てきて斜向かいの銀行へゆっくり歩いていくとこからの一連のカット、繋ぎが気持ちよくて、昔画に描き起こしたことがあるのを思い出す。
前半の上映からまず「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」を、その存在こそ知ってはいたものの初めて観る。ドン・シーゲルが監督だったことは知っていたような知らなかったような。冒頭気の触れたような中年男が髪振り乱し救急車から抱え下ろされ「この世の終わりだ」みたいに叫び散らすところからグッと引き込まれる。冒頭にいかに観客の心を掴むか、別に大量の火薬や危険なスタント、見たことのないCG映像なんか必要ないんだなと。いつの間にか人々がエイリアンとすり替わって街が侵略されていく。眠るな眠ってはダメだ眠ったらエイリアンに取って代わられてしまう。いつもなら中盤あたりでうとうとしてしまうところだけども、子守唄のようなモノクローム映像にも屈せず最後まで完走、鑑賞。でもエイリアンには屈した方が楽なのかもしれない人類にとっては。
冒頭の引き込み方がよかったなと思ったのだけどパンフの解説を読んだら、「ボディ・スナッチャー」の冒頭と終わりの主人公の独白シーンは話をわかりやすくするために製作サイドから要求されて渋々付け足したのらしい。要求されてそれ以上の仕事をするところがドン・シーゲルの職人的な一面なのかもしれない。とすると、冒頭と終わり以外のところに潜むドン・シーゲルの職人的だけではない彼ならではの特色、特性は何なんだろうか、とか。職人的と言われてるからといってその人が徹頭徹尾職人的かというとそんなこともないんじゃないか、とか。どこかにブレてるところがあるはず、そういう視点で映画を映画以外も観たい。
「殺人捜査線」は全く初知り作品で、まっさらな状態で観たせいも多分にあるけどもこれが痺れるほどの面白さ。とか言いながら中盤だったかギャングの二人組が飛行機でサンフランシスコに向かってるあたりからうとうと。目が覚めるとギャングの二人組、イーライ・ウォラックとロバート・キースが一般人に密輸させたヘロインの回収に船乗りが利用するホテルに向かっていた。このギャング二人組の関係性が面白い。ロバート・キースの方が先輩というか兄貴分のようなんだけども、ちょっと舐められてる風でもありでも貫禄もある。イーライ・ウォラックの方は若くて無鉄砲なのに小心がのぞく。それぞれにアンビバレントな内面を持っている。追手となる刑事二人組も迫る中、彼らの関係性も微妙で内部崩壊する可能性もあったりして、果たしてヘロイン回収ミッションはうまくいくのかという緊張感が終盤に向かうにつれ高まる。あくびをする間もない。
面白い作品ほど眠気を誘うようなことが多い気がする。それともちょうど作品の退屈なところ、弛緩してるところでうとうとして意識が朦朧とするので、観終わった後に面白い部分だけが印象として強く残るのだろうか。でも映画の中の特定の1シーンだけが独立して面白いということはあるかもしれないが、やっぱりその1シーンの面白さは、それよりも前の他のシーンに支えられて成り立ってることがほとんどのようにも思う。だから途中うとうとしていて、ハッと目覚めてそこで目撃したシーンが面白かったとしても、多分本来の面白さの半分くらいしか味わえてないんじゃないかと。それでもうとうとした作品ほど、眠気を誘うような作品ほど面白いという印象が残るのはなぜだろうか?それは多分うとうとしてその作品の旨みの全てを味わえなかった分、実はもっと面白かったのではないかという悔しさみたいなものが残り、その悔しさをポジティブに変換してしまってるのではないか。うとうとしてまともに観られなかった部分を、勝手に面白かったと補正してしまうみたいなことが起こってるんじゃないかと。
こういうダラダラした文章はきっと誰もまともに読まないだろうから飛ばしていただいても構わなく、まあでき得るならば飛ばした箇所については「何か面白いことが書いてあったかもしれない」と都合よく補正してもらえることを期待して、この「映画はねむい」ももしかしたら面白いテキストだと誤認してもらえるかもしれないなどと。